HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲3 Nacht

1 金髪の野バラ


塀の向こうにはチャペルの十字架が覗いていた。足元を梳く風に運ばれて行く枯れ葉。ハンスはそれを追うように小走りに道路を横断した。
空は青く、薄い雲が海に向かってたなびいている。彼の身長より少し高いその塀は、ずっと先まで続いていた。その時、黒い小さな生き物がその上に飛び乗るのが見えた。
「黒猫だ」
ハンスはそちらに向かって走り出した。すると、警戒したのか、猫は塀の向こうに姿を消してしまった。
「待って!」
彼は自分もその塀に手を掛け、軽々と乗り越えてあとを追った。

敷地の中は広かった。鉄筋コンクリートの大きな建物が幾つもあり、庭は公園のように広かった。樹木や花壇も整備されている。そこは学校の中だった。猫は花壇の仕切りの煉瓦の上にいた。ハンスは背後から近づいた。黒い毛は艶々と輝いていた。彼はそっと手を伸ばして捕まえようとした。が、その時、猫が振り向き、毛を逆立てて威嚇した。アーモンド型の目は茶色。
「Schade!(残念) 緑じゃないのか」
彼は少しだけ肩を落とすと校舎の向こうの空を見上げた。それは彼の瞳にはめ込まれたガラスの色と呼応しているように見えた。

陽射しは穏やかだったが、風は冷たい。彼は長い校舎の南側に沿って歩いた。今はまだ授業中らしく、生徒達の姿は見えない。建物の向こうにあるグラウンドから聞こえる歓声や笛の音、それに、ボールを蹴る低い音などが響いている。
「試合でもしているのかな?」
ハンスはそちらに駆け出そうとして、ふと足を止めた。風に混じってピアノの音が聞こえたからだ。
「直人君……?」

彼は校舎を見上げた。その音は2階の教室から漏れて来る。その教室の窓は皆閉まっていたが、隣の部屋の窓が一つ開いていることにハンスは気づいた。彼は笑って頷くと、助走を付けて風に乗り、高く飛ぶと、開いた窓からひらりと身を滑り込ませた。

そこは音楽準備室だった。普段は二人の教師がそこを使っていたが、今は誰もいない。机と椅子が二つずつ。両サイドには棚があり、楽譜や楽器などが収められていた。彼は一通り、楽器を眺め回し、それから廊下に出ると音楽室の前に来た。
そこでは1年の授業が行われていた。聞こえて来たのは「野ばら」の曲だ。生徒は4つのパートに別れて練習していた。
(あれ? 女の子もいる。宮坂って男子だけだと思ったけど……)
彼は宮坂高校が今年から共学になったことを知らなかった。

ピアノを弾いているのは結城直人。この学校の音楽教師だ。


  Knabe sprach: ich breche dich,
  Röslein auf der Heiden!
  Röslein sprach: ich steche dich,
  Dass du ewig denkst an mich, ...


「ドイツ語だ」
彼はそっと教室の後ろのドアを開けて入るとソプラノの少女達に混じって歌った。

「お。いいね。今日はソプラノ頑張ってるな。よく声が出てるよ」
演奏しながら結城が言った。
言われた方の少女達は後ろから聞こえる声の主の正体を確かめようとざわざわし出した。一人二人と歌うのをやめ、遂に誰も歌わなくなってしまった。が、たった一人、ハンスだけが気持ちよさそうに歌っている。
「ん? どうしたんだ? みんな、歌って……」
そう言って振り向いた結城が彼に気がつき、弾くのをやめた。
「何故、ここに……!」
風の触手が教室という野原を巡る。

「あれ? どうしてやめちゃうですか? 僕に構わず弾いてください」
ハンスは少しだけ唇の端を上げて言った。結城はしばしその男を見つめた。その意図を測りかねたからだ。40人の生徒と金髪の野ばら。いざとなれば、この手で手折ることは可能だろうか。逡巡した末に、彼は授業を続けることにした。
「わかりました。では、次、パート練習を……アルト」
するとハンスはアルトに混じって歌った。
「すっごーい! あの人、何者なの?」
「ソプラノもアルトも自由自在に歌えるなんて……ほんとに男の子?」
少女達が囁く。
「僕は、ちゃんと男の子ですよ」
ハンスが笑う。

続いて、ハンスは男子のパートにも混じって歌った。各パートをすべて歌い切ると、彼は満足したように口笛を吹いた。彼が一人入るだけで、どのパートも生き生きと響いた。
「すっげえ! あんた、ドイツ語バッチリなんだ」
男子が褒める。
「僕、ドイツ人ですから……」
「へえ。本場もんじゃん」
「そりゃ、うまい訳だよ」
教室中が騒ぎ始める。

収集がつかなくなりそうなので、結城は2度手を打って注目を集めた。
「それじゃ、せっかくなのでハンス先生にお手本を示してもらってもよろしいですか?」
結城は、ハンスの機嫌を損ねないよう、慎重に訊いた。
「はい。もちろん僕は構いませんよ」
ハンスは喜んで前に出ると、結城の伴奏に合わせて歌った。
「すっごーい! 彼ってプロの歌手なのかな?」
生徒達の疑問に答えてハンスが笑う。
「いいえ。僕はピアニストです」
「へえ。じゃあ、結城先生よりうまいの?」
「結城先生のピアノは何点ですか?」
意地悪な質問も飛び出した。

「うーん。そうですね。直人君のさっきの演奏は75点! 80点以上が合格点ですから、ちょっと惜しかったですね」
ハンスの言葉に教室中が盛り上がった。結城は苦笑しながらも、その男から目を放そうとはしなかった。
「結城先生不合格!」
生徒達がはやす。
「でもね、君達、75点はすごい点数ですよ。だって、今は本番の授業ですから……。普通、本番で実力を発揮するのは難しいです。それから言ったら、十分通用する点なんです」
生徒達は黙って彼の話を聞いた。
「じゃあ、普通ならどれくらいの点なんですか?」

「65点から75点ってとこじゃないかな? もし、本番で80点の演奏ができたらすごいですね。僕なら95点は固いですけど……」
彼はさらりと言って微笑する。
「じゃあ、弾いてみてください!」
生徒達が言う。
「いいですよ。じゃあ、皆さんも本気出して歌ってくださいね」
そう言うと彼は結城とチェンジして、椅子に座った。途端にさっと周囲の空気が変わる。

「直人君、指揮をお願いします」
ハンスが言うと結城の手の中に指揮棒が現れた。光のタクト。彼は一瞬、驚いたようにハンスを見た。が、それはさっきまで卓上に置かれていた黒いそれだった。結城はそのタクトを強く握った。そして、ゆっくりとそれを振り上げる。ハンスと目で合図を交わし、演奏が始まった。が、生徒達は皆、ピアノに聴き入っていて歌い出せない。ピアノがメロディーを奏で、間奏で再び合図した時、結城の一振りで我に返った生徒達は弾かれたように歌い始めた。


  Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
  Röslein auf der Heiden,
  War so jung und morgenschouml;n,
  Lief er schnell, es nah zu sehn,
  Sah's mit vielen Freuden.
  Röslein, Röslein, Röslein rot,
  Röslein auf der Heiden.


発音は拙かったが、歌は前よりも粒が揃っていた。ハンスは演奏しながらも弱いパートの後押しをして歌う。すると、そのパートが息を吹き返したように盛り返して行く。テノールもバスも補強されて、4つのパートが見事に重なってハーモニーを奏でた。
「すごーい! きれい!」
「感動しちゃった!」
曲が終わると生徒達が絶賛した。
「自分達の声に感動しちゃうなんて……」
「何か、涙出て来た」
「ああ、本当に、今のはなかなか素晴らしかったよ、みんな。この感覚を忘れないように! ハンス先生、ご協力ありがとうございました」
が、結城の言葉にハンスは反応しなかった。ピアノの椅子に掛けたきり、じっと何かを見つめている。そんな彼の様子に懸念を抱き始めた時、いきなりハンスが顔を上げて生徒達を見た。

「えーと、今の僕の演奏は85点でした」
ハンスがそう言うと生徒達はどっと笑った。
「そんなことないです!」
「100点! 100点!」
何人かが叫んだ。
「おだてるの、いけません。僕、調子に乗ってしまいます」
ハンスが茶目っ気たっぷりに言うので、生徒達はまた笑う。
「ほらほら、静かに! みんな、席に戻って!」
結城がそう言い掛けた時、チャイムが鳴った。
「それでは、今日の授業はここまで」
結城が言うと、係が号令を掛け、授業が終わった。

生徒達が出て行ってしまうとハンスが言った。
「早速話を聞きに来たです」
「約束の時間にはまだ1時間早いと思うのですが……」
結城は遠慮がちにそう言ったが、ハンスは首を横に振った。
「早い? それは妙ですね。僕はちゃんとこの時計を見て来たですよ」
そう言って、彼は左腕にはめた時計を見せた。が、やはり、その針は10時半を少し過ぎたところだ。
「約束の時間は11時半と記憶しているのですが……」
もしや勘違いしているのではと思い、結城は言った。が、ハンスは笑いながら教室の中を歩き回った。

「別にいいですよ。少しくらい早いの、僕は気にしません」
そう言うハンスの動きはまるで予想出来なかった。一体わかっているのかいないのか捉えどころがないこの男の言動に振り回されることのないよう、結城はしっかりと地に足を付けていなければならないと思った。
「申し訳ありませんが、3時限目にも授業があるのです。そろそろ次の生徒達もやって来ますし……」
「じゃあ、僕がお手伝いしますよ。そうしたら早く終わるですか?」
「いえ、それは……」
結城が返事に困っていると、ノックの音がして、一人の男子生徒が入って来た。
「失礼します。あの、結城先生、こちらにいらしたんですか? 準備室にいらっしゃらなかったので……」

「ああ、すまないね。僕の机の上にあるから、プリントの束と一緒に持って来てくれないか?」
「はい」
生徒は会釈して出て行こうとした。
「君!」
ハンスは飛ぶような勢いで駆けて行くと、ドアの前に立って、その生徒の顔を見つめた。
「あの、何でしょうか?」
生徒がおずおずと訊いた。
「君の名前は?」

「風見龍一です」
「リュウイチのリュウは、ドラゴンの龍のことですか?」
「はい」
「僕の日本名もリュウなんです。使ったことはないけど、母様が付けてくれたんです」
「お母様は日本人なんですか?」
「はい。もう昔に亡くなりましたけど……。僕は日本に来れてうれしいですよ。君や直人君に会えたし……。ああ、僕はハンス・D・バウアーと言います」
龍一は困惑したように彼と結城とを交互に見た。が、結城は黙って成り行きを見守っている。
「よろしくです、龍一」

差し出された手を少年は恐る恐る握った。
「あの……」
ハンスは握った手をなかなか放そうとしなかった。
「ふふ。どうして下を向くですか? 僕が怖い?」
「いえ……」
少年はそう言ったが、視線を合わせようとはしない。
「正直に言ってもいいんですよ。僕が怖いですか?」
龍一は泣きそうな顔で頷いた。
「ハンス先生、その辺で彼を解放してやってくれませんか? 彼は係なので、もう次の授業の支度をしないといけないのです」
結城は時計を見て言った。ハンスは二人を交互に見、それから、笑って少年を放した。

「別に驚かすつもりじゃなかったんです。君の中に直人君と同じガイストの影が見えたから……。興味持っただけです」
「先生と同じ……」
少年は呟くように繰り返した。
「わかるんですか? あなたには、ぼくが……」
龍一がそう言い掛けた時、がやがやと何人かの生徒達が入って来た。
「あれ? 結城先生、もう来てんの?」
「ああ、悪いね。ちょっと話をしていただけなんだ。チャイムが鳴るまでは休んでいていいよ」
そうして結城はハンスと龍一を促して音楽準備室に向かった。

「龍一とも話せますか?」
ハンスが訊いた。
「残念ですが、彼は4時限目の授業も受けなければなりません」
「そうですか。では、また別の機会にお話しましょう。僕は彼のこと気に入りました」
そう言うとハンスは、また準備室にあった楽器の方へ歩いて行った。
龍一はこちらを気にしながらも次の授業の道具を持って廊下に出た。

「風見、あとでゆっくり話すけど、あの人は敵じゃない。心配しなくてもいいよ」
結城がすぐにその後を追って来て言った。
「でも……。何だか怖い。彼は光が強過ぎて……。底が見えない気がするんです」
ドアが閉まっているのを確かめると、少年は小さな声で結城に言った。
「大丈夫だ。いざとなれば、僕が付いてる」
そう言うと、結城は龍一の肩に手を置いた。
「……」
少年は微かに頷くと音楽室に入って行った。

3時限目の授業は何事もなくスムーズに終わった。ハンスは生徒達のコーラスに加わったり、指揮や伴奏をしたがったりと気ままに振る舞っていたが、授業を妨害するようなことはなかったので、結城も目を瞑ることにした。生徒達も始めは驚いていたが、すぐに慣れ、授業が終わる頃にはすっかり教室の人気者になっていた。が、そんな中でも龍一だけは彼を見ようとしなかった。結城も彼とハンスとの間が近くなり過ぎないよう気を配った。

その授業が終わると、結城は外出許可を取って外に出た。それから学校の前のコンビニで軽食を買い、二人はすぐ隣の公園に向かった。そこは海に面していて、野外ステージもあるような広い公園だった。彼らは誰もいないベンチに腰を下ろした。
「さて、どこからお話しましょうか」
結城がペットボトルのお茶を開けて言った。が、ハンスはそちらを見なかった。指先が動いて、何かを奏で続けている。結城はボトルからお茶を一口だけ飲むと軽く蓋を閉めた。喉が渇いていた。なのに、水分が浸透して行かない。一瞬、耳の奥で風が唸った。高速ですれ違う電車のように、風が囲いのない空を巡る。あの新幹線の中で彼らは一度対峙したことがあった。その記憶を持った風が胸の奥で空回りする。
「梳名という名前を知っていますか?」
唐突に振り向いて、ハンスが訊いた。
「いいえ。僕が知っている情報は限られています。僕が言えるのは浅倉茂という男のこと。それに闇の民という組織の一部に接触したことがあるということです」

「じゃあ、まず浅倉のことを教えてください」
そう言うとハンスもココアの缶を開けた。
「浅倉とは高校の同級生でした。彼も同じ風の能力者なんです。一緒にドイツで訓練を受けたこともあります」
「ドイツで?」
「ええ。風の狩人として仕事をしたこともあります」
それを聞いて、ハンスは笑い出した。

「あの、僕は何か変なことでも言いましたか?」
「いいえ。少し驚いただけです。だって、僕達、すぐ近くにいたってことだから……」
「近くに?」
「君はクラウスとナザリーのことを知っているのでしょう?」
「そういえば、あなたもバウアーさんでしたよね?」
ハンスが頷く。
「僕達、兄弟なんです」
「えっ?」
「もちろん、両親はそれぞれ違います。だって、直人君は僕の正体を知っているでしょう?」
結城が頷く。その足元を数匹の蟻が花壇の方に向かって歩いていた。

「それに、ドイツでは、バウアーって姓はたくさんあります」
「でも……」
「そういえば、日本から優秀な能力者候補が来ていると聞いていたけど、それは君達のことだったんですね」
ハンスはうれしそうだった。
「でも、浅倉はその狩人の同盟を裏切って幹部達を抹殺し、自分がそこの指導者に成り変わったのです」
「裏切り? でも、ある意味、それは正しい選択をしたですよ」
ハンスの瞳に遠い時間が重なる。

「どういうことですか?」
「風の狩人同盟は、グルドという大きな組織の下請けのようなものなんです。正義に狂った人達の犯罪集団なんですよ」
「犯罪集団? そんな馬鹿な……」
その言葉を素直に受け入れるには幾許かの躊躇いを感じた。
「本当ですよ。僕はそのグルドのトップと行動を共にしていたんですから間違いありません」
そう言うハンスの表情は読めなかった。
「だとしても、奴のやり方は乱暴過ぎる。浅倉は自分の目的を達成するためには手段を選ばない男なんです。風の力を使ってもう何人も……。たとえば、高校の時のコンクールでも……」

「コンクールで……。誰かを消したのですか? それはよくありませんね」
ハンスは流れる雲を見やりながら言った。
「浅倉はそういう男なんです」
「直人君はその浅倉って奴が嫌いなんですか?」
振り向いて言う。
「……かつては親友でした。でも、あいつのやり方は性急過ぎる。いくら闇の民の問題を表に出したいということであっても、余程周到な計画を練ってからでなければ無理がある」
結城の中に巣喰う闇の風とそれを抑する理性との間で激しい葛藤が起きていた。

「では、浅倉と闇の民は関わりのあるものなんですね?」
ハンスが言った。目の前にいるこの男の中にも闇はある筈なのに、まるでガラスの蓋で覆われたように中身が見えなかった。
「恐らくは……」
二人の頭上を水鳥が飛んで行った。黒い陰影が地上にまで薄い影を落とす。
「その闇の民っていうのは何ですか?」
「一言で言えば、風の能力者集団です」
「風の狩人同盟のような?」
「いえ、どちらかというと政治家達が匿っている影武者のような存在だと聞いています」

「影武者?」
「護衛とか諜報活動とか、時には身代わりになったりもするし、暗殺もする」
「スパイみたいな?」
「ええ。彼らこそが忍者と言われる者達の正体だったんじゃないかと僕は思っているんです」
「そうか。能力者だったら何の不思議もありませんね」
「彼らはその主からの命令は絶対で逆らうことは許されない。闇の民の子ども達には特殊な教育が施されている。つまり、国を守り、国益のために尽くす。けれど、実際は国というよりも各家ごとに所属し、格付けされているらしいですが……。どちらにせよ、政治家達が私利私欲のために能力者を使っている。それが許せないのだと浅倉は言うのです」

「私利私欲?」
「国や人のためではなく、自分のプライベートの欲を満たすために使われている。だからこそ、彼らを解放し、理想の国に作り変えるのだと……」
「それはおかしな話ですね。その浅倉だってコンクールでは、自分の欲を満たすために人を殺したのでしょう?」
ハンスの言葉に、思わずびくっとしてその顔を見つめる。
「その通りです。奴はもう何人もの人間を殺したのです。なのに、今更ユートピアだなんて……」
苦渋の表情が見て取れた。ハンスは飲み終えたココアの缶をベンチに置いて言った。

「君には躊躇いがあるようですね」
「人の生き死にを左右する能力を持ってしまって、躊躇いを感じない人間がいるでしょうか」
「それはまっとうな人間が考えることです」
「まっとう……?」
「僕なら躊躇わない」
「……!」
「躊躇ったら死ぬからです」
「でも、その判断基準は?」
「さあ。あえて言うなら、気分かな?」
結城は表情を硬くして目の前にいる男を凝視した。

「じゃあ、新幹線で、僕を殺さなかったのも気分だったんですか?」
ハンスは人形のように首を曲げ、こちらを見て笑う。
「そうですね。だって、面白そうだったから……」
「面白そう……?」
彼は軽く息を吐くと遠方に停泊している船を見た。

「サンドイッチ、食べないんですか?」
ハンスが訊いた。
「ココア、飲み終えてしまったのなら、僕が買って来ましょうか? あそこの販売機で……」
結城が立ち上がる。
「それじゃ、お願いします。これと同じ物を……」

結城はポケットから小銭を出すと販売機の投入口に入れた。ハンスはまだベンチにいた。
「……底が見えない、か」
結城は口の中で呟く。確かに、彼の本性は青いグラスの底に隠されて、外から覗き見ることはできない。そのコーティングは脆いようにも見えるし、決して壊れない不屈の要塞のようにも見える。だが、それはガイストという流れが作る幻なのかもしれない。1年前に死んだピアニスト。彼は本物なのか。それとも偽りの影か。
(見極めるための判断材料を、僕は持たない)